すなわち――いつ幽鬼に襲われてもおかしくない、ということ。
朱華は押し殺した声で雨鷺に訊ねる。「竜糸の代理神は神皇帝の勅命によって選ばれた尊きお方。それなのに、いなくなっちゃったってどういうこと? まさか、もう幽鬼に」
「いえ。大樹さまは生きておられます。どこかで。それゆえ、神殿はややこしい状況に置かれているみたいなのです……わたしは『雨』のちからしか扱えないため、それがどういう状況なのかすべて理解できるわけではないのですが」雨鷺はそれだけ口にすると、仔細は里桜さまがお話になりますから、と朱華を神殿内の最奥部の室へやへ案内すると、ぺこりと礼をしてその場から去ってしまった。
ぎぃ、と黒檀の扉が閉まり、取り残された朱華は四方を乳白色の石壁に囲まれた状態になる。天井は高く、氷柱のような透明な水晶が幾つも垂れ下がっている。一歩、足を動かすと踵の高い沓がかん高い音を立てる。床の材質が、木から石に変わっていた。その先に、同じ石で作られたであろう立方体の箱がみっつ、不規則に並んでいる。術具でも仕舞ってあるのだろうか。
まるで、外部からの侵入を拒否するような、荘厳な雰囲気を持つ空間だ。竜神の花嫁候補だという朱華を閉じ込めるための檻なのではないかと思えなくもない。 ――どうしよう。 その場にしゃがみこみ、溜め息をつく。「……代理神が、半神になったから、こんなことになったのね」
ふたりでひとつの神として竜糸を護っていた里桜と大樹。神の代理を任される術者は国の最高権力者である神皇帝によって選ばれ、その集落で土地神に仕えることを誓わされる。
引き継ぐのは、術者が婚姻をして一線を退くか、もしくは死んだときだけ。基本的に婚姻による引退が多いため、代理神に選ばれる術者の平均年齢は低い。ただ、不慮の事態というものは存在するため、自分この非常事態に神殿は土地神を起こして結界を完全な状態に戻す方法を選ぶしかないのだろう。そのために花嫁を差し出すという手段は有効である。 だが、過去の幽鬼との戦いでちからを使いすぎたために深い眠りに落ちた竜神を無理矢理起こしてもいいものなのだろうか。 ――でも、竜神さまを起こすために、竜糸の神殿にいる人間以外で、強いちからを持つ少女が必要だったから、桜月夜は師匠のところで何も知らずにいたあたしを迎えに来たんだよね? 土地神の強力な加護を持つ神術者、もしくはそれとは逆に土地そのものに忠誠を誓うことでちからを手に入れ逆さ斎でありながら神皇帝に認められた逆井一族。竜糸の地には眠りについた竜神の代理として『天』の血統にあたる大樹と逆井一族の里桜が君臨している。そのふたりを補佐するのもまた、桜月夜の守人と呼ばれる強い加護を持つ神職者たち。 代理神と桜月夜の守人と比べると、姓を持たない逆さ斎の未晩のちからは弱い。だが、その未晩のもとですこしずつ学び、五つの加護に沿った神術体系をひととおり取得している朱華には、竜神と旧知のあいだにあるという茜桜が封じた未知数のちからが隠されている。竜神と交流することのできる代理神なら、朱華になんらかのちからが封じられていることも、事前に察知できたに違いない。 だから、未晩は朱華のちからが完全なものになったらすぐに夫婦神の誓いを吟じさせ、神殿に騙し討ちするような形で自分のものにしたかったのだろう。 裏緋寒の乙女が必要となった際の神殿に、朱華の存在を感づかれる前に。 けれど大樹がいなくなってしまったことで、神殿は慌てて竜神の花嫁候補を探すことになり、封印が解かれる前の朱華に白羽の矢が立ってしまった。 つまりそれは、未晩の目論見が、外れたということ。 自分の妻にしようと記憶を操作してまで傍に置いていたのに、あっさり神殿に連れて行かれた朱華が竜神の花嫁にされることを、彼はどう思うのだろう。 「……だめだ。ぜんぜんわからないや」 父代わり、兄代わり、そして恋人代わりとして傍において溺愛してくれた未晩のこと
白い桜の花びらが風に舞い、視界を遮断する。 沈みゆく西陽のあかいひかりがその光景に加わり、周囲は真紅に燃え上がる。 桜の甘い芳香にむせながら、幼い少女は傷ついたちいさな蛇を掌のうえにそっと乗せて言葉を紡ぐ。「Eyaitemka hum pak pak――恢復せよ、小さき雷土(いかづち)の神の御子(こ)よ」 ――蛇は竜神さまの御遣いだから、殺してはいけないの。 亡き母が子守唄のように口にしてくれた神謡(ユーカラ)が、脳裡で甦る。 とっさに声にだした呪文が正しかったか、少女に自信はない。 けれど、目の前でいまにも息絶えそうなちいさな白い蛇を見た瞬間、はやく助けないと間に合わないと判断したから、少女は土地神が与えてくれた加護のちからを発動していた。 それは、白い山桜に囲まれた集落、雲桜(くもざくら)に暮らす『雲』の部族だけが持つ古(いにしえ)民族が残した神謡の断片。 集落では滅多やたらと使ってはいけないと戒められているけれど、いまは危急を要する時だからと少女は思いなおし、ぴくりともしない蛇にちからを注ぎつづける。 おとなに見つかったらたかだか蛇にそのようなちからを使うものではないと叱られ、座敷牢で数日罰せられる。そうはわかっていても少女はやめられなかった。 ――おねがい、起きて! この、ちいさな蛇の命をたすけたい。 もう、自分の前で死んでいく姿を、見たくない。 病に倒れた母を治癒術で救えなかったあの時みたいに悲しい思いをしたくない。 それが単なる自己満足でしかないことはわかっているけれど…… 山裾を西陽が照らしあげていく。 真っ白な桜の花は血のようにあかくくれないに染まっていく。空に浮かぶ雲とともに。 そして、ふたたびの桜吹雪が少女を襲う。 これ以上、呪文を唱えてはいけないとでもいいたそうに、花神の強烈な風が、吹き荒れる。 それでも少女は言葉を紡ぐ。必死になって祈りを捧ぐ。 ひとつに束ねていた長い髪は風に巻き上げられ、身にまとっている白藤色の袿の裾もひらひらと揺らめく蝶のように空を泳ぐ。いつ身体が吹き飛んでもおかしくない状態が、拷問のようにつづく。 禍々しいほどに鮮やかな、深緋色の時間が過ぎていく。すでに太陽は地平線の彼方へと姿を消し、入れ替わるように夜の世界を支配する黄金色の月が、喉を枯らした少女
* * * 「……死にそこなったか。忌わしい蛇だ」 桜吹雪の向こうで、一匹の蝙蝠が嘲るように鳴き声を発している。 その報告を耳に、男はつまらなそうに応える。「蛇がいるからには眠れる竜を無理に起こすこともない。標的を竜糸(たついと)から雲桜に変える」 思わぬ発見だった。 たいしてちからを持たない花神を土地神としている少数部族『雲』が暮らす山深くに位置する雲桜は男にとって捨て置くはずの場所だったからだ。まさかここで至高神の加護を持つ『天』に勝るちからを目の当たりにするとは。これは、放っておけない。「いまはこの、邪魔をした小娘がいる厄介な呪術を使う集落を落とすのが先だ」 雲桜の土地神を殺めれば、その地は瘴気に満ち、またたく間に深い闇へ人間を飲み込んでいくだろう。その絶望に打ちひしがれた人間どもを食餌できるのだ、余興にもちょうど良い。「そのあいだに、計画を練り直せばいい。まだ時間はあるのだから……な」 きぃきぃと、賛同するように蝙蝠が鳴く。気づけば少女に介抱された蛇は、姿を転じることなく澄み切った夜空に逃げるように消えていた。「正体を悟られるのを避けたか。まあよい。あの蛇を殺すのはあとの楽しみとしておこう」 だが、愚かな少女だ。土地神の制止もきかずに術を遂げるとは。これで花神も疲弊して、こちらの侵入に気づくのに遅れるだろう。 男は苦笑しながら蝙蝠に命じる。「いましかない。雲桜を、滅ぼせ」 * * * 息を吹き返し天空に姿を消した蛇を呆然と見送った少女は、暁降ちに起こる嵐の予兆など知る由もなかった。 そして、朝陽を拝む間もなく、故郷は滅ぶ。 雲桜を守護していた土地神、花神が幽鬼によって殺されてしまったから。 * * * 土地神が施した魔除けの結界は解け、悪鬼が美しい桜の園を蹂躙する。 桜の淡い芳香は喰い破られた人間の血肉の臭いに染め変えられ、白い桜もどす黒い瘴気に染まる。 繰り広げられる悪夢に、疑心暗鬼になった『雲』の民は罵りの言葉を吐く。「誰が禁術を使ったのだ……!」 雲桜を守護する花神の加護をもつ『雲』の民は、集落の誰かが禁忌とされる術を使ったために花神のちからが弱体化し、そこを鬼に付け込まれたのだと悟る。 だが、その原因をつくったのが齢九つの少女であることにはまだ誰も気づいていない。
少女は最後まで気づかなかった。 蛇は掌の上に乗せられる以前から、 すでに息絶えていたことに。 * * * 「――ここで、じっとしているんだよ。この悪夢が、終わるまで」 誰もが土地神の守護から引き裂かれ、逃げまどうことしかできずにいる。 そのなかで、少女だけが蚊帳の外へ放り出されていた。 術師である父親が施した、命がけの結界だった。「ヤダ、お父さんも一緒に……!」 「それはできないよ。いいかい。花神さまの遺志を継いで、生き延びるんだ。生きて、逆斎を頼りなさい」 「さか、さい?」「そうだ。|紅雲《べにぐも》であるお前には神術の才がある。雲桜が失われても、お前の身に宿る『雲』のちからは変わらない。それに『天』に連なる逆斎の人間なら、神でなくても鬼に勝てる」 父親が少女へ言葉を贈るあいだも、雲桜に暮らしていた人間は、次から次へと鬼によって葬り去られていく。ぬちゃりともぺたりとも言い知れぬ気味の悪い足音が、父親の背後に迫っている。 けれど、少女はそれを眺めることしかできない。 どす黒いおおきな爪が、父親に向かって振りかざされる。 悲鳴を押し殺して、首からどくどくと血を流しながら父親は叫ぶ。「お前は、土地に仕える逆さ斎に……!」 最期の言葉が溶けて消える。 少女はもはや声をあげることもできずにいた。双眸から滴り落ちる涙をぬぐうこともせず、悪夢の終焉をひたすら、待つ。 見知った雲桜の民がひとり、またひとりと鬼に喰われていく。元凶がどこにあるか真相に辿りつくを与えることなく、首を捥がれ、五臓六腑を引きずり出され、手足を噛み切られ、残虐に殺されていく。おびただしいまでの血が津波を起こし、神聖なる土地を穢していく。目を背けたいほどの光景。けれど少女は瞳を閉じない。忘れてはいけない。目に焼きつけて、離れないようにしなくては…… ――鬼を、倒せる人間に。逆さ斎に、なる。 いまは非力な自分だけど、いつか、雲桜のみんなの仇を討つために。 そう、強い決意を胸に秘めたまま、瞳に涙を溜めたまま、気が狂いそうになりながら見つめていたけれど。 少女の目の前に、燃え上がる炎に照らされ赤く染まった髪の少年が現れて、にっこりと微笑まれたところで、ぷつりと意識が途切れた。 「しばらくお休み。この胸糞悪い夢が醒めたら、キミに逢いにいく
――幽鬼(ゆうき)。 それは神と人間がともに暮らすこの北の大地、カイムに出現する人間に似た異形のものたち。 鬼と呼ばれることの多い彼らは暗闇を愛し神を選んだ人間に仇なす忌わしき存在である。 ときには人間の心の闇に巣食う闇鬼(あんき)を潜ませ、扇動し、争いと混沌に満ちた箱庭を作り、破壊することもある。 土地神に護られた人間を自分たちの玩具にし、大陸の神々を屈服させるべく、鬼たちは人間の寿命よりもはるかに長い、気が遠くなるほどの年月をかけて、いまもどこかで策謀を張り巡らせ、暗躍しつづけている。 奴らの魔手から逃れるため、古代の先住民であるカイムの民は、集落ごとに神との契約をさせ、土地神の加護という名の結界を施した。だが、あれから千年ちかくが経ち、神々の結界もまた、あちこちで綻びが生じているのが現状である。「……あれから十年ですか」 幽鬼による雲桜の滅亡は、カイムに暮らす他の部族たちにも衝撃を与えた。 古代の伝承でしか知らされていなかった幽鬼は実在し、いまもなお人間たちに害をなそうとしていたのだ。 どの集落も次は自分のところに来てもおかしくないと感じたのだろう、この数年で術師による結界はずいぶんと強化されたように感じる。 だが、土地神がひとと混じって暮らしている集落はまだいい。ここ、竜糸の地は、守護してくれるはずの竜神が、湖の底で眠りこんでいるのだ。それは、もう、何百年と……! 絹の浄衣をまとった神職の蒼い髪の青年は、水晶の縫いこまれた濃紫色の袿を纏った少女の前で、はぁと息をつく。土地神が眠りこけているせいで、とばっちりを受けている神殿の人間からすれば、神不在の状態で闇鬼だけでなく元凶とされる幽鬼の襲来をも警戒しなければならないのだ。下手をすれば雲桜の二の前になってしまう。 だが、青年の前に座る少女の表情はやわらかかった。 いちばん辛い立場にあるというのに、どこか楽しそうにも見えてしまう。「幽鬼がとらえる時間の感覚は人間のそれとはまったく違うわ。その点だけは神に近いとも言えるんじゃなくて?」「そうですね。ですが、おひとりで竜神さまの代理をつとめるのは、やはり無理があります」 「星河(せいが)。それでも、いま、代理神としてこの地を守ることができるのは、逆さ斎としてのちからを宿したあたくししかいないのよ」 「ですが、里桜(さ
「ここに、裏緋寒(うらひかん)を……花嫁を連れてきなさい」 「ですが」 「竜糸の土地神さまである竜頭(りゅうず)さまが眠りつづけて身動きのとれないいま、半神の不在は致命的なのよ。神としてのちからを補うためにも、竜頭さまの番になることが叶う裏緋寒の乙女は欠かせないわ」 里桜は自分よりあたまふたつ分おおきな星河に向けて、言い募る。「竜神さまとの対話なら、里桜さまおひとりで問題な……」 「いままでならそうしていたわ! でも、それは傍に大樹(たいじゅ)さまがいたから安心してできたことなのよ。彼がいない状態で竜頭さまの夢の中へ思念を飛ばすなど、結界を自ら破るのと同じこと。大樹さまが消失されたのが知られれば、幽鬼どもはこの竜糸の地に押し寄せてくる。それを阻止するためにも……」 「生贄にするのか」 冷めきった声がふたりの間に割って入り、里桜と星河は目を見合わせる。 物音をたてることなく神殿内部に入ってきたその男は、夜を彷彿させる黒い外套を脱ぎ捨て、星河と同じ白い浄衣の姿になると、不本意そうに里桜の前に跪く。「――夜澄(やずみ)」 「この土地に暮らす乙女を竜神が眠る湖に捧げてまで、逆さ斎の里桜サマは幽鬼の魔手を退けたいご様子。そんなことをしても、竜頭は喜ばないぜ?」 「……それでも、大樹さまの穴を埋めることくらいならできるでしょう?」 「まあ、表緋寒(おもてひかん)の里桜サマのご命令なら、従いますけどね」 「夜澄!」 星河に一喝されても夜澄は態度を変えない。土地神が眠る竜糸を実質上守護する代理神である里桜を支える立場にある桜月夜の守人のなかで、彼だけは竜頭のみに忠誠を誓いつづけている。彼の代理でしかない人間を敬うなど無駄だと一蹴しつつも、竜頭が愛する竜糸を護るためだと守人の任務をつづける夜澄の主張もわかるので、里桜はあえて怒りはしない。「言葉が足りなかったようね。あたくしは裏緋寒の乙女を生贄にするつもりはなくてよ? とりあえず神殿に彼女をお招きしたいの。そうすれば、竜頭さまだって……」 ――表と裏の緋寒桜が揃いしとき、隠れし土地神は桜蜜(おうみつ)を生み出す神嫁を欲して降臨する。 星河は里桜の意図に気づき、顔面を蒼白させる。「眠っている土地神を強引に起こそうというのか!」 ここ何百年も眠りつづけている竜糸の土地神を、目の前にいる少女は
「ちょ、ちょっと勝手におふたりだけで話をすすめないでくださぃぃいい~!」 星河の抵抗もむなしく、夜澄は意気揚々と神殿をあとにする。土地神の従者でもあり代理神の護衛でもある特殊な能力を持っている彼ら、さんにんの桜月夜の守人たちなら、この竜糸の地に隠された裏緋寒の乙女を探し出すことなど他愛もないことだろう。 そのふたりの後ろ姿を見送りながら、里桜は呟く。「……竜神の花嫁。どんな女の子かしら」 神とひととが共存するカイムの地で、神とひととが婚姻を結ぶことは稀なことではない。 だが、この竜糸の土地神は、数百年ものあいだ眠りつづけている怠惰な隠居老人のような竜神である。 神が眠る湖に生贄として桜蜜を生み出す花嫁を捧げて生気を与えれば、驚いて陸地に戻ってはくるだろう。 だが、竜糸の危機が過ぎ去れば、ふたたび湖で眠り呆けてしまうに違いない。 そのためには、花嫁を利用して寿命のある限り陸地に縛りつけるほうが、誰も犠牲にならないし、神殿で行っている結界の修復も簡単になるしあちこちで発生する瘴気や闇鬼の存在も一気に払えて一石二鳥だ。 ただ、裏緋寒の乙女には多少の恥辱を強いることになるだろうが……生贄として殺されるよりは神の花嫁として愛玩され傅かれる方がマシだろう。 花嫁が次代の神を孕めばさらに良い。大樹がいなくなった穴を埋めることだって容易くなるのだから。 大樹と里桜。 それは竜頭が眠りにつく前に構築された竜糸という集落特有の存在、代理神の半神の名である。土地神の夢に潜入し、彼の声をきくことのできる選ばれし神術を扱えるふたりの人間が、文字通り、この竜糸の土地神の神の代理となって守護を担っているのだ。 ふたりでひとつ。 たとえ神術に長けていようが、どちらかが欠けてしまえば神の代理として強大なちからをつかうのは困難だ。それどころか逆に、結界を緩めて幽鬼の侵入を許しかねない。 ――いえ、もうすでに悪しき気配は膨らみはじめているわ。ひとに害意を与えるほどではなかった微弱だった瘴気の澱みが、濃くなっているんですもの…… そこまで考えて、里桜という呼称を与えられた少女は淋しそうに微笑う。「大樹さま」 突然姿を消してしまった自分と同じ役目を持った少年のことを想い、里桜は目を伏せる。 「幽鬼を誰よりも憎んでいらっしゃるあなたが、なぜ竜糸の代理神の
* * * ――何かに呼ばれたような気がする。 「誰か、いるの?」 陽が沈んでから裏庭に出た朱華(はねず)は首を傾げた恰好のまま、視線を彷徨わせる。 けれど春の花が宴をはじめたばかりのこの場所に、不審な輩は存在しない。 紺碧の夜空と張り合うように咲き誇る深い青色を湛える矢車草が無造作に生い茂るなかを歩きながら、朱華は薬草の植え込みへすすむ。一歩、一歩と足を進める都度、薄荷や紫蘇などの薬草の香りがツン、と鼻腔に届く。そうかと思えば薬草畑を抜けた先で梅や桜をはじめとした甘くて果敢ない花々の柔らかい匂いがふわりと漂い、華奢な朱華の身体を優しく包み込む。 先々には師匠が植えっぱなしにしている花木がいつものように朱華を迎えてくれた。 美しいなかにも妖しさが垣間見える暗紅色の芥子が囲む植え込みの奥には、ひときわおおきな桜の木が泰然と立っていた。 「……もうすぐ、咲くんだ」 淡い萌黄色の長衣を薄荷の香りのする夜風に揺らめかせながら、朱華はしみじみと呟く。 すでに暦は早花月(さはなつき)の半ば。 気づけば家の裏に植えられている桜の木には綿雪のような白くてまるい、いまにも地面に落下しそうなほどおおきな蕾が垂れ下がっている。 物心のついた頃から見ているはずなのに、いつ見ても飽きることのない、朱華にとって特別な木。 毎年この時期になると花開く八重咲きの糸桜の白い花の美しさは格別だと、蕾の膨らんだ花木を見て、朱華は感慨深くなる。「っといけない、お花の水やりと薬草を採ってくるよう頼まれたんだ」 いまはまだ仕事中。物思いにふけって時間を潰すなど言語道断である。手のひらを合わせて天に掲げ、朱華はカイムの民に伝わる『雨』の神謡の一節を唱える。ぱらぱらと小粒な雨が、ほんのすこしだけ庭の植物を潤していくが、その光景を見て朱華は溜め息をつく。「……やっぱりうまくいかないか」 自分が持つ土地神の加護は竜糸の竜神が与えた『雨』のちから。けれど、朱華が持つ加護のちからは弱く、水を操ることすらままならない。師匠が教えてくれたまじないの治癒術は上手にできるのに、基本的なことができないのが朱華の悩みの種である。 ――師匠はあたしが『雨』のちからを使えなくても神術の素質はあるって言ってくれるけど、なんだか土地神さまに嫌われているみたいでイヤだなぁ。 苦笑を浮
この非常事態に神殿は土地神を起こして結界を完全な状態に戻す方法を選ぶしかないのだろう。そのために花嫁を差し出すという手段は有効である。 だが、過去の幽鬼との戦いでちからを使いすぎたために深い眠りに落ちた竜神を無理矢理起こしてもいいものなのだろうか。 ――でも、竜神さまを起こすために、竜糸の神殿にいる人間以外で、強いちからを持つ少女が必要だったから、桜月夜は師匠のところで何も知らずにいたあたしを迎えに来たんだよね? 土地神の強力な加護を持つ神術者、もしくはそれとは逆に土地そのものに忠誠を誓うことでちからを手に入れ逆さ斎でありながら神皇帝に認められた逆井一族。竜糸の地には眠りについた竜神の代理として『天』の血統にあたる大樹と逆井一族の里桜が君臨している。そのふたりを補佐するのもまた、桜月夜の守人と呼ばれる強い加護を持つ神職者たち。 代理神と桜月夜の守人と比べると、姓を持たない逆さ斎の未晩のちからは弱い。だが、その未晩のもとですこしずつ学び、五つの加護に沿った神術体系をひととおり取得している朱華には、竜神と旧知のあいだにあるという茜桜が封じた未知数のちからが隠されている。竜神と交流することのできる代理神なら、朱華になんらかのちからが封じられていることも、事前に察知できたに違いない。 だから、未晩は朱華のちからが完全なものになったらすぐに夫婦神の誓いを吟じさせ、神殿に騙し討ちするような形で自分のものにしたかったのだろう。 裏緋寒の乙女が必要となった際の神殿に、朱華の存在を感づかれる前に。 けれど大樹がいなくなってしまったことで、神殿は慌てて竜神の花嫁候補を探すことになり、封印が解かれる前の朱華に白羽の矢が立ってしまった。 つまりそれは、未晩の目論見が、外れたということ。 自分の妻にしようと記憶を操作してまで傍に置いていたのに、あっさり神殿に連れて行かれた朱華が竜神の花嫁にされることを、彼はどう思うのだろう。 「……だめだ。ぜんぜんわからないや」 父代わり、兄代わり、そして恋人代わりとして傍において溺愛してくれた未晩のこと
土地神が施した竜糸の結界を護っているのは事実上、ふたりでひとつの代理神とされる里桜と大樹と呼ばれる男女の術者である。そのうちの片割れがいなくなってしまったということは、いま、この竜糸の結界は里桜ひとりが保っているということ。 すなわち――いつ幽鬼に襲われてもおかしくない、ということ。 朱華は押し殺した声で雨鷺に訊ねる。「竜糸の代理神は神皇帝の勅命によって選ばれた尊きお方。それなのに、いなくなっちゃったってどういうこと? まさか、もう幽鬼に」 「いえ。大樹さまは生きておられます。どこかで。それゆえ、神殿はややこしい状況に置かれているみたいなのです……わたしは『雨』のちからしか扱えないため、それがどういう状況なのかすべて理解できるわけではないのですが」 雨鷺はそれだけ口にすると、仔細は里桜さまがお話になりますから、と朱華を神殿内の最奥部の室へやへ案内すると、ぺこりと礼をしてその場から去ってしまった。 ぎぃ、と黒檀の扉が閉まり、取り残された朱華は四方を乳白色の石壁に囲まれた状態になる。天井は高く、氷柱のような透明な水晶が幾つも垂れ下がっている。一歩、足を動かすと踵の高い沓がかん高い音を立てる。床の材質が、木から石に変わっていた。その先に、同じ石で作られたであろう立方体の箱がみっつ、不規則に並んでいる。術具でも仕舞ってあるのだろうか。 まるで、外部からの侵入を拒否するような、荘厳な雰囲気を持つ空間だ。竜神の花嫁候補だという朱華を閉じ込めるための檻なのではないかと思えなくもない。 ――どうしよう。 その場にしゃがみこみ、溜め息をつく。「……代理神が、半神になったから、こんなことになったのね」 ふたりでひとつの神として竜糸を護っていた里桜と大樹。神の代理を任される術者は国の最高権力者である神皇帝によって選ばれ、その集落で土地神に仕えることを誓わされる。 引き継ぐのは、術者が婚姻をして一線を退くか、もしくは死んだときだけ。基本的に婚姻による引退が多いため、代理神に選ばれる術者の平均年齢は低い。ただ、不慮の事態というものは存在するため、自分
朝衣のまま連れられてきた朱華は食事を終えたのち、里桜の侍女をしている雨鷺(うさぎ)という女性に案内されて湯浴みをした。浴場はひとりで湯につかるのがいたたまれないほどに広大で、なみなみと注がれた湯船には甘ったるい香りのする桜によく似た苔桃色の花びらが敷き詰められていた。なんでも、遠く帝都より神皇帝から送られてきた外つ国の花だという。「薔薇(そうび)と申しまして、美容にとてもよろしいんだそうです。やはり外つ国でも高貴な身分の方しか使えないという貴重な花なんだとか」 雨鷺は焦げ茶色の髪と瞳を持つ典型的な『雨』の少女だ。同じルヤンペアッテでありながら表現しづらい玉虫色の髪と菫色の瞳という朱華からすると羨ましい容姿である。だが、雨鷺は朱華の髪の美しさに感嘆の声をあげてくれた。「黒にも茶にも他の色にもとれるこの不思議な髪の色こそ神々に愛された印ではありませんか! きっと里桜さまもお喜びになりますよ」 湯あがりにも薔薇の花でつくられたという化粧水を全身に塗られ、朱華の未成熟な身体が磨かれていく。美容によい薬草を化粧水にして使うという話は未晩から教わっていたものの、まさかこんな風に自分の身体に使われる日がやってくるとは思わなかった。「……恥ずかしいわ」 髪から足先に至るまで甘ったるい薔薇の香りが漂う身体に困惑しながら、朱華は雨鷺に手渡された衣へ腕を通す。銀糸で八重桜の刺繍がされた瞳の色を透かしたような白菫色の袿は軽く、まるで神謡に謳われる始祖神の御遣いである天女たちが纏っていたという羽衣のようだ。「よくお似合いですよ。お眠りになられている竜神さまもこんな愛らしい花嫁さまに起こされたら二度寝もできませんって!」 「そういえば、竜神さまはまだ……」 竜糸の土地神は竜神さまと民から呼ばれているが、その実態を目にした人間は皆無といってよい。なぜなら竜神は神殿敷地内にある湖で百年以上前から眠ったままの状態だから。 なんでも、数百年前に起きた幽鬼の襲来で滅んだ集落のちからを引きこんだ際にひどく疲労してしまったからだとか。 そして、眠りにつく直前に彼が神職者たちへ命じたのが、竜糸という集落
「それに、彼は里桜さまとおなじ逆さ斎だから、あとのことは自分で対処できることでしょう」 「逆さ斎……」 朱華はここにきて何度も耳にするようになったその言葉を反芻する。 それは、土地神の加護を持たない集落で生み出された特別な術者のこと。神謡によればその地には最初、土地神がいたらしいが、人間との色恋沙汰で殺されてしまったとされている。そのため、神に逆らってまで土地に仕える人間たちを他の集落の土地神が逆さまの斎と揶揄したことで、逆さ斎、逆斎などという呼び名がカイム全体へ知られるようになる。 なかでも、神無き集落を護る一族は「逆井(さかさい)」の姓を名乗れるほどの勢力を持ち、五つの加護に似たちからを扱えることから、他集落の神殿などに召されているともきく。当初は『天』を偽る外法遣いなどという軽蔑も受けていたが、いまでは幽鬼を人間ながらに消滅させることのできる逆井一族にしか扱えない独自のちからは土地神たちにも認められている。 たぶん、里桜はその、認められた逆さ斎……逆井に属しているのだろう。 姓を持たない未晩と違って。「どうして、教えてくれなかったんだろう」 朱華はずっと未晩が『天』の人間だと思っていた。まさか彼が神のいない集落、神無の出身で、加護を持たずに数多の神術をこなしているとは、考えもしなかった。「逆井を名乗れない加護なしの術者は、弱いながらも正統な土地神の加護を持つ人間よりも劣る、なんて言われてますからね。男の意地でしょう」 あっさり応える星河に、朱華は思わずぷっと吹き出してしまう。「お、男の意地って……でも、師匠ならありうるかも」 孤児になった朱華を引き取り、診療所の手伝いをさせながら面倒を見てくれた未晩。 たとえ記憶が改竄されているとしても、朱華が彼と一緒に暮らしたすべてが無になってしまうことは、ありえない。 彼が姓を持たない逆さ斎で、朱華に封じられている土地神の加護を欲して、自分を傍に置いて、将来自分のちからとするために記憶を変え、ときが訪れたら妻神となるよう仕組んでいたとしても……「たぶん、あたしは師匠を許すと思
自分を引き取って育ててくれた銀髪の男性を想い、朱華は呻くように声を発する。 二十歳になったらほんとうの家族になろう。そう言ってくれた未晩。けれど彼は、朱華の知らない間に、朱華の記憶を都合のよい方向へ塗り替えていた。なぜ? 「――二十歳の誕生日に、封印が紐解かれる」 考え込んでいた朱華を引き戻すように、夜澄の低い声が響く。「それ……なんで、あなたが」 ハッとして夜澄を見れば、彼は何食わぬ顔で天ぷらを頬張っている。そんな夜澄を見て、颯月が苦笑する。「きくだけ無駄だよ。彼は自分が言いたいことしか告げないから」 「でも。そのとおりなの。あたしは次の誕生日を迎えたら……ちからを手に入れる」 声に出して、はじめて実感した。 何度も夢で告げられた茜桜の言葉。その真意を掴めたのは、未晩が桜月夜と敵対する姿勢をとったちょうどそのとき。「それで、師匠は二十歳になったら、あたしを自分の妻にしようと……?」 たとえ強力な加護を持たなくても、集落の神殿へ夫婦神の誓いを吟じ、その後夫婦の契りを交わせば夫は妻の、妻は夫の加護を受けることが可能になる。 未晩が欲していたのが、朱華に封じられていた神のちからだとしたら……「そんなことを考えていたんですかあの年齢不詳な逆さ斎は」 蒼白になった朱華を宥めるように、あえて茶化すように星河が切り返す。「そう考えたら、ぜんぶ、納得できる」 だから、神殿の要求を、彼は拒んだのだ。ちからを手にした朱華がいつの日か土地神に見初められることを、予め知っていたから。 それゆえ、彼は闇鬼を浄化することなく心の裡に隠し持っていたのだ。 朱華が嫁されるであろう土地神に対抗するために。 自らを鬼にしてまで……? 俯く朱華に、颯月が明るく声をかける。「大丈夫だよ、彼のなかの闇鬼を動かした瘴気の大半は、ボクが払っておいたから」 「……え?」 いつの間に。 朱華は箸を動かす手を止め
* * * 「……って話は師匠からきいたことがあったけど。まさか自分がその神嫁?」 信じられないと朱華は溜め息をつき、目の前に並ぶ昼餐に困惑する。 それは、青菜と芋と雑穀とわずかな味噌で生活していた朱華には考えられない豪勢な食事。 竜糸の最南に面する|冠理海《かんむりかい》より朝一で運ばれてきたのであろう新鮮な魚は刺身にされ、透き通った菊の花のように青磁の皿の上を飾っている。野菜は|美蒼岳《びそうたけ》の麓で採れたものだろう、新春の悦びを表現するかのように|款冬《ふきのとう》や|接骨木《にわとこ》の黄緑の若芽が目にも鮮やかな天ぷらにされている。 見慣れない肉はどうやら鹿を焼いたもののようだ。鼻孔に香ばしい匂いが届き、思わず湧き上がる唾液を呑み込んでしまう。 そのうえ、炊きたてのつやつやの白米には|乳酪《バター》が乗せられ、トロトロと溶けながら芳しい香りを漂わせている。そのままでも充分美味しそうなのに、醤油や塩を好みで乗せて桜月夜の三人は気兼ねなく食べている。 朝食を食べ損ねた朱華はおそるおそる椀を手にとり、みそ汁を啜る。みそ汁にも魚が入っていたが、生臭さがまったくなかった。みそ汁を口にしたとたん黙り込んでしまった朱華に、颯月が咀嚼しながら話を切り出す。「信じたくないのは仕方ないけど、ボクたちは里桜さまに命令されてキミを連れてきんだ」 「不安なのは仕方ないでしょうが、悪いようにはしないとおっしゃってましたよ」 颯月の言葉に同調するように、星河もにこやかに応える。だが、夜澄だけは仏頂面のまま、何も言わずに箸を動かしている。 朱華は曖昧に頷いてから白米を口に運ぶ。黄金色のとろける乳酪が絡んだ米粒は朱華の想像以上に美味なるものだったが、表情を変えることはできなかった。「……もっと美味そうに食え」 そんな朱華を横目に、夜澄がぼそりと呟く。けれど、夜澄の声を朱華はあっさり無視する。 たしかに、美味しい。だけど、表情が追いつかない。なぜ、自分は、神殿に召されて、こんな高貴なひとしか味わえない食事をしているのだろう。あのまま、未晩を置いてきて、
ひとと神とがともに生きる”かの国”が産声をあげたのは数千年ほど昔のこと。 ぽかりと海に浮かぶよっつの小大陸とそこへ連なる星屑のような島々が国の領土とされた。 東西南北、北から南へ流れるように縦に細長いその国の最高権力者は、神皇帝(しんのうてい)と名乗った。 神皇は国民からこの国を興した国祖とされる始祖神の『地』の加護を宿した息子と慕われ、その玉座は代々、始祖神の血を引く皇(すめらぎ)一族によって、継承されている。 彼らは始祖神だけでなく、彼の姐神とされる天空を統べる神――至高神が産み落とした『天』のちからを持つ人間とも関係を持ち、国の統治を確かなものにしていた。 だが、東西南北の小大陸のなかで、北に位置する北津海(きたつうみ)の大陸……北海大陸だけは、神皇の『地』のちからが通用しなかった。 古代より神々と幽鬼と呼ばれる異形のモノとが争うその北の大地には、すでにその土地神と呼ばれる至高神の数多のこどもたちが、始祖神が人間の息子と国を興す以前より、この土地で生きていた先住民のために、幽鬼と対抗するためのちからを各々に振りまいていたからである。 先住民たちは部族ごとに『雨』、『風』、『雷』、『雲』、『雪』の加護を持っていた。集落ごとに異なる土地神に護られながら暮らす彼らは加護のちからの強弱関係なしにカイムの民と呼ばれ、土地神とともに幽鬼からの脅威と戦っていた。 そのことに深く感銘したときの神皇は、すこしでも力になればと帝都にいた『天』の少女をカイムの地へ送り出した。彼女は土地神たちの連携を強める巫女姫として活躍し、カイムの地で『雲』の男性との間に子を残した。天神の娘と呼ばれた彼女の子孫は『天』のちからを引き継ぎ、各集落の土地神とともにいまもなお神職に携わっているとされる。 しかし、三十以上存在していた集落も、激しい幽鬼との争いで気づけば十二にまで減少し、土地神が与えた加護を持つ主要な部族も『雨』、『雪』、そして少数部族の『風』のみとなってしまった。 なぜなら、集落の要である土地神にも、人間同様に寿命というものが存在したから…… 幽鬼との戦いで命を落とした神をはじめ、千年近い天寿を
* * * わからないのならば仕方がない。 十年先、汝の生まれし日が訪れるそのときまで俺のちからは封じられたままなのだから。 だが、我が遺した膨大なちからを、母神に預けたフレ・ニソルの加護を汝の成長した心身に解き放つときが来たれば、すべては安易に理解できよう。 朱華(あけはな)――汝、ルヤンペアッテの眠れる竜たちとともに、異界の幽鬼を斃すちからを持った、選ばれし裏緋寒の愛玩乙女よ…… * * * ――ずっと、曖昧だった夢の最後の言葉が、朱華の耳元に囁かれていた。 「茜桜……?」 目の前では怒りに身体を震わせた未晩が、朱華の肩を強く抱いたまま、神術で桜月夜へ攻撃をつづけている。未晩の身体は闇鬼に乗っ取られてしまったのだろうか? けれど、桜月夜の三人の守人は未晩からの攻撃を防ぐだけで、攻撃することがない。未晩とともに朱華まで害する危険があるからだろうか。 朱華の囁きに、未晩が顔を強張らせる。「まさか、記憶が……?」 未晩の言葉に、朱華は無言で首を振る。何かが違う。朱華は茜桜などという男といままでに逢ったこともなければ名前すら知らなかった。つい十日前から夢にでてきて意味不明なことを朱華に語りつづけていた不思議なひと。いきなり封印がどうのこうのなどと言われても理解できるわけがない。 そんな朱華に安心したのか、未晩がふっと柔らかな笑みを見せる。ふだんと同じ、ふたりきりで暮らしているときの、穏やかな微笑。 だが、そこを夜澄は見逃さなかった。 「Asusun asusun tussay matu――綱の輪を引け我が竜蛇!」 朱華の肩を抱えていた未晩の腕が、地中から現れた湾曲した蛇のような細長いものによって引き離され、朱華の身体が宙に浮く。悲鳴をあげる間もなく朱華の身体は夜澄に奪われていた。 唖然とする未晩を颯月が瞬時に昏倒させ、星河がほうと息をつく。「神無の逆
「ウラヒカン? なに……」 きいたことのない言葉が朱華の耳に届く。 けれど男は未晩の言葉を無視して硝子のような琥珀色の瞳で朱華に向き直り、言葉を遮る。「こちらこそ訊きたい。お前はこの男の何を知っているんだ? お前はこいつに何を求め、その見返りに何を与えようとしていたのか?」 氷のような視線を投げかけられ、朱華は言葉を震わせる。「し、師匠は、あたしが孤児になったのを拾ってくれて……」 「どうして孤児になったんだ? それまでお前はどこで何をしていた?」 厳しい言葉が朱華に襲いかかる。未晩は抵抗を諦めたのか、がっくりと頭を垂れて呻き声を漏らしている。「朱華は、十年前の流行病で親を失ったんだ。それで」 「お前には訊いていない。神無(かむなし)の逆さ斎」 遮るように言い返した男の言葉に、朱華は目をまるくする。「……え? サカサイツキ?」 ――師匠は逆さ斎なの? 至高神に愛された『天(カシケキク)』の末裔じゃないの? 朱華の問いかけるような視線を受けた未晩は、ふっと淋しそうに微笑を浮かべ、しずかに頷く。 翡翠色の瞳に、陰りが生まれる。「まさか僕のことを知っているとはな。さすが桜月夜」 「里桜(さとざくら)さまはすべてお見通しですから」 場違いなほど朗らかな緋色の髪の少年の声が、緊張しきっていた空気を知らず知らずのうちにほぐしていた。 里桜。 それは竜糸の竜神に仕える、竜神の声をきくことのできる少女が持つ特別な役割で、神の代理を務める少女の呼び名。「その里桜さまの命で、君たちは来たのだろう? 僕のなかの鬼を払うなど、そのついででしかない。そうだろう?」 すべてを悟ったのか、未晩が穏やかな声色で尋ねると、三人のなかで一番礼儀正しそうな蒼い髪の青年が笑顔で応える。「そうですね。逆さ斎である貴方なら鬼に身を滅ぼされるという可能性は殆どないでしょうからね。闇の瘴気を竜糸の地にばらまかない限りは、危害を与えるつもりは